2012/03/07

散歩みち 拡大版

日本共産党函館地区委員会が発行する道南新報に私のコラム「散歩みち」が掲載されています。稚拙な文章でお恥ずかしい限りですが、408字の指定原稿に毎回、何を書くかと考えるのが楽しい時間となっています。

3月4日付け道南新報の私のコラム「散歩みち」を紹介します。

「函館は死んだ」と啄木は日記に書き残し函館を去りました。当時の函館の中枢を焼き尽くした明治40年の大火です。啄木はこの大火を「革命」と表現しました。大火は函館ルネッサンスを興し、ハリストス、赤レンガ倉庫、基坂や二十間坂が建設され、元町の高台には豪華な函館区公会堂が建ちました。市制町村制が出来た明治22年以降も北海道は区制でした。全国には39市が誕生、最も人口が少ない久留米市は約25千人。青森県では人口約3万で弘前市が誕生。現在の青森市は1万9千で青森町でした。函館区は約5万3千人の人口にもかかわらず函館市とはなりませんでした。函館は33年後の大正11年に札幌、小樽などとともに市制を施行します。啄木は函館を去った後、社会主義思想に関心を寄せます。啄木死去後、大正デモクラシーの風潮の中で社会主義運動も再び活発となり大正11年には科学的社会主義の党、日本共産党が創立し今年函館市と同じく90周年を迎えます。


408字では伝えられないことを書きたいと思います。
元町の旧函館区公会堂はなんで「区」なんだろう?って思う市民も多いんじゃないかなと思います。
東京都新宿区などの東京23区は特別区、札幌市中央区など政令指定都市の行政区。それらとは違う「区」が過去に存在していました。函館区もそのひとつです。

市町村制度ができた明治22年、全国に39の市が誕生しましたが、市の名前を見るとほとんどが江戸時代の城下町です。そして、幕末から明治初年にかけて開港した都市。

函館区は明治22年の段階で十分に市になる要件はあったと思います。5万3千とういう人口は当時では大都市です。札幌はまだ1万人台で江差、松前と同規模のまちです。私たち函館市民が住む、北海道島は、北海道というひとつの行政単位になってしまい、開拓途上の北海道だけ新たな区制がつくられ結果、札幌市、小樽市、釧路市などとともにようやく大正11年に市政を敷くことが出来たのです。

明治期に北海道島でも早くから開かれた函館・道南は北海道と別に本州と同様な扱いをし県を置き、県庁を設置していれば函館市と道南は発展していたのではないかと思うと残念でなりません。
(明治期に一時北海道にも札幌、函館、根室の3県がありましたが、本州の県とは違います)

大正11年、函館区役所から函館市役所に、当時はいまの豊川町に役所がありました。洋風建築の市役所は残念ながら昭和9年の大火で焼け落ちて、東雲町の広路(ひろじ)=グリーンベルトが交差する真ん中に移転建設されました。

石川啄木が焼け出された明治40年の大火がなかったら、いま西部地区の観光資源となっている建築物はほとんどありません。この大火でつくられた二十間坂通りは幅二十軒、約36メートルもある通りですが、この通りは昭和9年の大火では防火帯の役割を発揮して元町方面への類焼を防いでくれました。二十間坂がなければ、また私たちがいまみている西部の歴史的景観もなかったのです。

函館市が市政施行した大正11年は、日本共産党が創立した年でもあります。
日本一の老舗政党です。政党はまた新規出店ブームのようです。出来ては消え、出来ては消えしています。しっかり、地に足ついた政党、草の根の政党、機関紙が毎日発行され、海外にも拠点を設けて取材活動をする国際的な政党でもあります。

まだまだ十分ではありませんが、来るべき解散総選挙に向けて、今年90年を迎える日本共産党のことをもっと知ってほしいと考えていますので、このブログでも紹介していきます。


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