2012/03/21

函館大火と函館の都市計画



函館大火慰霊堂(大森公園内)


 今日3月21日は昭和9年の函館大火から78年目の日になります。当時の函館市街地の3分の一を焼き尽くし、何度も繰り返し起こった函館の大火では最大となるものでした。
昭和9年3月21日午後6時53分に住吉町91番地の1軒の住宅から出た火は、瞬く間に市内に広がり翌3月22日午前6時まで約11時間に渡り燃え広がり亀田川を超え的場町や時任町の一部まで燃え広がりました。

死者2,166人、22の町が全焼、18の町が半焼。大火なので死因は焼死が多いと思うかもしれませんが、溺死が917人、焼死748人と溺死が焼死を上回っているのが特徴。多くの市民が追ってくる火に追われ橋が焼け落ちた亀田川や荒れ狂う波が押し寄せただろう大森浜に行く手を塞がれて溺死したのではないかと思います。他に凍死217人、窒息死143人とあります。

 私の父は函館大火の4年後の昭和13年3月生まれですが、祖父母と父の兄姉たちが当時、鶴岡町の長屋(現在の大手町のグリーンベルト当たり)に住んでいました。大正15年生まれの伯父の話しでは迫りくる火に妹たちを連れ亀田八幡宮方面へ逃げたことを伝え聞いています。その逆、東の方向を目指していたら命は無かったかも知れないと言っていました。

明治以降1000戸以上を焼く大火は昭和9年の大火まで9回を数える函館。明治12年と明治40年の大火では火に強いまちづくりを行っています。自然発生的に出来た道路を改め幅の広い直線の道路を作っていきました。

明治12年の大火で江戸時代以来の箱館時代の街並みは姿を消して寺町も大移動します。明治40年の大火にも町並みの大改造が行われ、私たちがいま見る元町から末広町に見られる伝統的建造物のほとんどがつくられていきます。

明治41年~旧相馬邸
明治42年~旧北海道庁函館支庁庁舎、元町カトリック教会、金森倉庫
明治43年~旧函館区公会堂、中華会館
明治44年~旧函館郵便局(明治館)、旧金森船具店
大正2年~旧イギリス領事館
大正3年~相馬株式会社
大正4年~真宗大谷派函館別院
大正5年~函館ハリストス正教会


本願寺函館別院は仮本堂のまま78年を過ごしてきたが、当時あった赤レンガの建物の意匠を復元した本堂がいま建設中で完成が楽しみです。


市役所から函館山方向に延びる「さかえ通」


 昭和9年の函館大火の後、全国から義捐金が寄せられそれをもとにに共愛会がつくられます。
そして、函館はさらに火に強いまちづくりを推し進めます。復興計画に基づき市道復興〇号線、〇〇広路という名称の道路がつくられます。中でも幅の広い広路と呼ばれる道路は、

幅55mの住吉広路、豊川広路、東川広路、東雲広路、旭広路、若松広路、新川広路、堀川広路、日の出広路

幅36m広小路、さかえ通、高田屋通、二十間坂通、八幡通がつくられます。
これらの多くは道路中央に大きな分離帯が設けられ樹木が植栽され防火帯となりました。のちに樹木が成長しグリーンベルトと呼ばれるようになり公園、緑地が少ない函館市にとっては緑のオアシス的な存在となっています。




 そして広路と広路が交差する地点には、さらに延焼を防ぐ工夫をします。
耐火構造物を交差点につくります。東雲広路と旭広路、広小路とさかえ通の交差点に函館市役所が、堀川広路と広小路の間には亀田川を挟み函館地方裁判所、法務局、新川公園を置き、堀川広路と的場公園、日の出広路の交差点にが鉄筋コンクリートの的場中学校を置きました。




宇賀の浦中学校
  さらに函館は3方を海に囲まれています。ヤマセ(東風)の流れ込む大森浜にそって防風壁の役割を果たすように鉄筋コンクリート造の学校を置きました。東川小学校(現在の道営であえーる大森浜団地)、旭中学校(現在の函館市勤労者福祉センター「サン・リフレ函館」)、大森小学校(現あさひ小学校)、新川中学校(現・宇賀の浦中学校)です。



若松広路に植栽されたクロマツ


大火を教訓に放水口が3つある函館の消火栓




 しかし、戦後長い間の函館市の都市計画は常に後手後手で、都市計画をしたあとに家が建ち住宅街が形成されたあとに家を壊し多額の用地取得費(すべて税金)を使って道路建設を行ってきました。それは現在も変わらず整備中の中道四稜郭通の外環状線(通称・産業道路)との交差点では3億数千万をかけて自動車販売店の土地の一部を取得して道路建設が進められようとしています。こんな馬鹿なまちは函館市だけです。


 私は長年にわたる市の無計画、無策が北海道の先進都市でありながら水族館はおろか動物園、青少年科学館すら無いまちにしてしまったのではないだろうかと考えています。この辺は私の研究テーマでもありますので今後、調査、研究をしていきたいと思います。


 人口減少時代にむさわしい都市計画、30年、50年後の函館市を見据えたまちづくり、いまの延長線上で考えるのではなく常に未来を想像して函館のまちをデザインしていかなければならないと考えています。
 

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